2011年6月28日火曜日

6月28日MS 『後継者の育成(体験に基づいて)』@横浜市中央


 本日の講師は(社)倫理研究所法人局 法人アドバイザー、(株)小野寺工務店 代表取締役の小野寺 照男氏、昭和10年2月14日、宮城県石巻生まれ、76歳。現在、横浜市北倫理法人会相談役を務めておられる。

 11人兄弟とばかり思っていたが、2人が早世していて実際は13人兄弟の真ん中だったことを後年知ったと言う。上京して土方のアルバイトや3年間新聞配達をするなど、苦学して大学を卒業した。
 その当時は男の出世は金儲けと考えていたので、小さくとも土建屋になって請負主になるのが一番良いだろうと思った。学校を卒業したとき、わざと小さな土建会社に就職、10年後の昭和43年に独立した。 蓄力が少なく、家内の両親から借金して始めた。

 企業のスタートは"五ない"・・・金がない、人がない、物がない、実績がない、のれんがない から始まる。ないないばかり言っていてもダメで、それを"三意"・・・熱意・創意・誠意 に変えて企業を育てていくことが大切であることを後に倫理を学んで知った。

 主にガソリンスタンドの仕事から始めたが、4~5カ所の店舗経営で最初は随分と儲かった。その頃は毎日のように飲み歩いて遊びまくり、家庭を顧みなかったという。そのツケが回ってきたのか、長男がグレて手を尽くしてもうまくいかなかった。やむなく長男を学校に行かせるのをあきらめ、自動車修理工場に住み込みで勤めさせた。
 そこの社長が倫理をやっていて、その紹介で長男を倫理学園の3泊4日の研修に参加させた。私に対する長男の態度が少し変わってきた。その後、倫理研究所の講師生に半年間採用してもらった。昭和57年、長男自身の希望で妙蓮寺の実践部に入会した。親も一緒に勉強が必要と山口先生から言われ、自分も工務店の経営に活かせると考え、家内とともに一緒に倫理を学びだした。
 河野氏と出会い昭和63年に横浜市倫理法人会に入会したとのこと。次々とお役を授かったが、倫理の勉強は役を受けてした方がよい。

 倫理学園に行ったときに、次男のことで木村先生から受けた指導は
①どんなことがあっても息子を信じてやること
②願いは息子にはっきりと伝えること
③しかし息子に何事も強制しない
④親の弱みを少し見せておく、万一の場合は家内のことを頼む、など

 高橋先生に受けた指導は
①自分の仕事を天職と思って、喜んで働く
②社会のために、金のならない仕事もやる
③夢を持って、それが実現すると思って働く
④社長はある程度の車・家を持ち、身なりを整える
 
 生い立ちから会社設立、倫理法人会入会までの波乱の人生の話で時間切れとなりました。後継者の育成については、次回に講話しますと約束されました。近い内での続きのお話しを期待したいと思います。(9月20日にパートⅡを予定)

 広報委員長 萩野宏樹

2011年6月21日火曜日

6月21日清掃デーから墓参へ@横浜市中央

集合前は朝日が射していたのに、会員の皆さんが集まってきて、イザッ掃除をしよう!ってころになったら、土砂降りになりました。

写真のジャンパーは、約2ヶ月前の100名モーニングセミナーの時に購入したもので、せっかく買うのだから安物はやめて良いものを買おうと(株)ウエマツさんにお願いしてフード付きを購入したので、こんなところで役に立ちました。(笑

降りしきる雨の中、思い思いのゴミを拾って、無事終了。

ホテル最上階にて食事をとっている間に、雨はあがって心は晴れやかに。
雨は雨でヨシ。晴れは晴れでヨシの気持ちが大切ですね。

食事をとったあと、丸山創始者の墓参に行き、会員の発展と会の繁栄を願いました。
その後、八王子の武蔵野陵に赴いて、参拝をさせていただきました。

                              会長 後藤長重



2011年6月14日火曜日

6月14日MS 不況を乗り切った経営者とは@横浜市中央


本日の講師は(社)倫理研究所法人局 法人スーパーバイザーの江上 伸雄氏、(株)エガミ 代表取締役会長。福岡市生まれ、70歳。
高卒後、父母に従い秋田県横手市に移住。婦人服店の多店舗化を進め、現在県外を含め13店舗を有する。

不況の時には経営の原点に戻るべきだが、成功者と失敗者では物の考え方にはっきりした違いがある。

成功者は
  •  過去に対して肯定的
  •  現在に対して積極的
  • 未来に対して希望を持っている
失敗者は
  • 過去に対して否定的
  • 現在に対して消極的
  • 未来に対して失望している
人の気持ちがどちらへ行くかで、結果に雲泥の差が出る。

松下幸之助は自分が成功した理由を尋ねられ、大変運が良かったとして?!次の事柄を挙げた。(松下幸之助著「道をひらく」PHP研究所刊)
①大変貧乏な家に生まれた→お金に対する執着が強く、お金ができてからも強い欲望を持ち続けられた
②身体が虚弱だった→他の人の協力を得て成果を上げようといつも考え、人の使い方が上手くなった
③学歴がなかった→他の人から何か学ぼうと、いつも真剣に人の話を聞く習慣が身についた
また、松下幸之助は不況時の対応として、
①従業員を減らさず、有給の休日を増やした→週休二日制導入の一つのきっかけとなった。
②給与を減らさず、賞与の一部を自社電化製品の現物支給とした→在庫減らしと普及促進に繋がった

石川島重工・東芝の経営再建を果たし、経団連会長・臨調会長として行財政改革の先頭に立った土光敏夫は、宴会に出席せず身の潔白を保ち、強大な組合を有する国鉄の分割民営化を実現した。
また、質素な生活を貫き、微々たる生活費以外の残りの多額の収入はすべて母の経営する橘学苑に寄付し続けたという。

先の見通しのつかぬ今だからこそ、偉大な先人に学ぶ必要があると思いました。

広報委員長 萩野宏樹

2011年6月7日火曜日

6月7日MS 『夢こそが現実を拓く』~夢は地道の中にある~@横浜市中央


 本日の講師はミュージカルカンパニー『新生ふるきゃら』プロデューサーの安田 研二郎氏、『劇団ふるさときゃらばん』創立時からのメンバー。
 『新生ふるきゃら』は地域に生き抜く人たちに題材とテーマを求めて作品を創り、全国を上演している劇団。今日は私の原点である『劇団ふるさときゃらばん』(通称ふるきゃら)の初公演から今日まで、夢への挑戦ということでお話します。
 創立当時の既存のミュージカル劇団はブロードウェイなどの海外志向だった。ふるきゃらは日本人の暮らしを描くオリジナル劇団を創ろうと意気に燃えてメンバーが集まり、1983年に創立。

 本当にどこででも受け入れてもらえるものかの検証を兼ね、最初に山形県下での全自治体公演という大きな挑戦目標を掲げた。全部で44市町村あるので、山形市に事務所を設け、そこを営業(制作部隊)の宿舎にした。一つのまちやむらで公演を実現するためには、実際にプロモーターがいない中で800人とか1000人の集客をする必要がある。制作部隊は地元で暮らす人々と出会うために毎日事務所から散っていった。
 上演する作品は「親父と嫁さん」というタイトルのミュージカル。幕が開くとそこに現在のふるさとがあるを目指した、取材を基に作り上げた作品。夏の終わりから雪の降る冬までかかったが、すべての市町村での公演を成功裏にやり終えることができた。当時の私は舞台監督だったが、公演地移動の際には運転手も務めた。何回か往復したが、真っ白な雪と月山が特に美しかったのを今でも鮮明に覚えている。
 まちやむらにはホールがないので、学校の体育館を利用した。ビールケースを積み上げて仮設舞台を作り、柱を立てて引き幕とした。入口には看板や幟も立て、体育館が芝居小屋に変身した。住民が挙って座布団持参で観に来てくれた。どの劇団もやったことのない快挙だったと思っている。

 日本一周公演を創立5年後にやる企画をした。旅公演が我々の仕事といいながら未だ公演をしていない県がいくつも残っていた。目標を掲げた以上はやり遂げたい。鹿児島県知覧町を皮切にスタートした。日本海側を北上して北海道稚内市まで巡り、太平洋側を南下して千秋楽は沖縄県那覇市で、足掛け5年、「村は三三七拍子」の作品で全国47都道府県の公演を実現した。公演回数371ステージ、観客動員数35万人。旅公演の中にふるきゃらの原点がある。
 会場に足を運んでくれたお客さんは普通の人たち。鑑賞するのでなく、自分とダブらせて劇を見るので、役者は本物に迫ろうと努力をした。舞台と客が一緒につくる世界に震えた。

 全国的に棚田を中心に耕作放棄地が急増するするのを喰い止めようと、棚田を全国民的関心事にすべく、ふるきゃらは1999年に東京日本橋の三越本店で「棚田パノラマ展」を実施した。三越の責任者は「難しい企画だが先ずは受けてみよう、伝統を守ることも大切だが新しいことに挑戦する意識がなくてはならない」と語ったという。
 『新生ふるきゃら』は6月27・28日に横浜にぎわい座で商店街を題材にしたミュージカル「トランクロードのかぐや姫」を上演する。野毛は横浜の下町だが、地域のコミュニケーションづくりに貢献できればと願っている。

 地域に密着した劇団ならではの、目の付け所に感心しました。東日本大震災で国民の意気が落ち込むなか、元気と感動を与える劇団として更なる活躍に期待したいと思いました。 

 広報委員長 萩野宏樹