2008年7月25日金曜日

今週の倫理 (569号)より 人を人たらしめるもの それは人の愛である

 今から八百年程前、ローマ帝国のフリードリッヒ二世が、多くの新生児を集めて恐ろしい実験を行いました。
集めた新生児に対してスキンシップを全く施さず、言葉も掛けることなく、世話係がミルクを与えて胃袋を満たし、排泄の処理だけして育てたのです。その結果、ほとんどの新生児が心を病み、多くが死んでいったというのです。

 この事実から、人は栄養補給と身辺処理だけではまともに生きてはいけず、スキンシップは魂の正常化をはかる上で極めて重要であるということは明らかです。新生児は親からの愛情を得ようと、精神的乾きを何とかして潤そうと必死なのです。

現在の日本を見渡すと、あらゆるところで魂の叫びが聞こえてきているという現状です。家庭・学校での教育が崩壊しつつある今、職場での教育が最後の砦ではないかとも言われています。
社員教育で頭を悩ませていたA社長の会社では、とくに若手社員の離職率が高く、無断欠勤・遅刻、トラブル等が後を絶たない状況でした。そうした中、経営者モーニングセミナーで輪読する『万人幸福の栞』の一節に氏は光明を見いだしたのです。

人を生み、育て、やしなう、これは親の愛である。家庭をつくり、社会をいとなみ、人の世の幸福と文化を生み出すもとは、人の愛である。
それからというもの、社員を我が子のように思い、専務である妻と二人で時には親代わりに叱り、時には誰よりも応援しました。A社長夫婦の家族以上の関わりに若手社員も心打たれ、「裏切れない」という思いから、問題が激減したのです。

 倫理研究所創設者の丸山敏雄は、その著『純粋倫理原論』「愛の倫理」の中で、愛を段階的に説明しています。最も低い愛情を自己愛であると述べ、これは己一人の為に愛を支配・独占、すべて我が物としようとする我情の変形であるとしています。恋愛は、この段階で終わるものが多く、男女の愛は、じつは動物愛を誇張したものであるとも言っています。

 次の段階として愛が人間のものになってくると、まず、滲み出るのは憐憫の情で、「気の毒だな」「かわいそうだな」という同情心となります。この時、人間の心は動物の心とは離れ、これが高められて友愛となり、師弟の愛となり、主従の愛となり、ついに親子絶対の愛になるというのです。

 多くの親は、子供のためならば、己を捨て子供を守ろうとします。子供が病気になろうものなら「自分が代わりに病気になります。だから子供だけは助けて下さい」と念じ、子供が危険にさらされようものならば、命がけで助けに行くでしょう。そこには自己愛など無く、我が子に幸せになってもらいたいという思いしか存在しません。

どのような人にも父親と母親は存在します。また親代わりとされる人が存在します。会社では社長が親であり、社員はかわいい子供たちです。社員の幸せを願い、親のような思いに至ったとき、真心の働きが姿を現わすのです。

0 件のコメント: