2007年9月12日水曜日

今週の倫理(524号)より すべては授かり物、感謝の心で生きよう

茨城県の水戸市に、佐藤宗明という歯科医がいました。この佐藤氏は、知る人ぞ知る名医でした。О氏は若い頃、その佐藤氏の家に出入りをしていて、佐藤氏よりいろいろと教えを受けていたのです。
ある日のこと、О氏は放っておいた虫歯が痛み出して、食事も眠ることも出来なくなりました。とうとう我慢できず、佐藤氏のところに駆け込んだのです。О氏は「先生、おまかせします。何本でも抜いてください」と叫びました。
佐藤氏により手際よく抜歯の処置を受けると、あれほど騒いでいた痛みが嘘のように引いたのです。強烈な痛みが去り、身も心もスッキリとしたО氏は、「あーあ、楽になった」と思わず声を発しました。
そんなО氏を見ながら、佐藤氏は厳しい表情で「あなたは普段、多くの人に純粋倫理の話をしているが、自らの実践は今ひとつだね」と言ったのです。О氏には、その言葉の意味がすぐには理解できませんでした。
佐藤氏はさらに話を続けました。
「私は永年この地で歯科医院をやらせていただき、数多くの人の歯を治療してきた。抜歯の経験も数え切れないほどある。その数多くいる患者さんの中で、ただ一人、忘れ得ぬ人がいる。その人は抜いた歯に深々と頭を垂れ、『なんと私は親不孝者であろうか。大事に使えば一生使える丈夫な歯を両親より頂きながら、自分のワガママのために、このように抜かなければならなくなった。本当に申し訳ない』と詫びたのである」
 そして「その人物に比べ、君はいったい何だ。あー楽になったと、その程度の心境なのか」と指摘したのです。
 О氏は自分の至らなさを恥じるとともに、世の中には想像を絶するような人がいるものだと思いました。今まで自分は、何でも出来ている、解っているという慢心がどこかにあったが、本当は何もできていない、何も解っていないということを、痛烈に思い知らされたのです。
 何事においても、「自分はできている」と錯覚しているところが私たちにはあります。とくに身近なものほど「当たり前」と思っている節があります。口では両親に対して感恩感謝の気持ちを持っていると言いつつ、実際にやっていることはお粗末極まりないレベルです。
物が見える、好きな所へ自由に歩いていける、おいしく食事ができる等々、どれを取っても自分で創ったものは何ひとつとしてないのです。すべて授かりものなのです。自分だけの力で生きてきたと思い込んでいる人間が、あまりにも多くこの世にはいます。
 授かり物であれば、もっと心を込めて大切に扱わなければなりません。見落としているところがないかどうか、もう一度、身近なところを振り返ってみましょう。そして小さな気づきを大切にして、できることから取り組んで見ましょう。必ずや、今までとは少々違う世界が拓けてくるはずです。

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