2009年3月31日火曜日

中央恒例 お花見会

本日は横浜市中央倫理法人会恒例のお花見会を西区の掃部山公園にて行いました。

寒い中、まだ桜は一分咲きでしたが、会長お手製のポトフ(大きな寸胴入り)やたくさんのお酒を持ち寄って楽しむことができました。


2009年3月27日金曜日

今週の倫理 (605号)より 妻への感謝の念が経営安定の必須条件


経営者のHさんがF研究員の元を訪れました。「ここ一ヵ月半ほど便秘が続いています。病院で薬をもらい、浣腸もしていますが、いっこうに良くなりません」と言います。同研究員が「言葉の出し惜しみをしていませんか。特に一番身近な存在である奥様に」と指摘すると、思い当たるふしがあるのか、「そういえば妻に対し、感謝の言葉など伝えた記憶がありません」と、至らなさを素直に認めました。そこで「これからはどんな些細なことでも、必ず『ありがとう』という言葉を伝えてください」と念押ししました。

しばらくしてF研究員が経過を尋ねると、「お蔭様で妻に感謝の言葉を伝え始めたら、すぐに便通がありすっきりしました。これからも妻への感謝の言葉を忘れずに実践します」と笑顔で答えたのです。

経営者のTさんはある時、先輩から「奥さんを大事に思うなら、奥さんの名前を『さん付け』で呼んであげるといいよ」とアドバイスされました。Tさんは一瞬「ええっ」と思いましたが、振り返ってみると、結婚以来、妻のことを名前で、しかも「さん付け」で呼んだことなど一度もありませんでした。先輩から何度も念押しされ、深く期するところのあったTさんは、なんとか奥さんの名前を「さん付け」で呼ぼうと思いましたが、なかなか簡単に言えるものではありません。

そこでふと思ったのが、〈毎朝の恒例になっている妻との朝の散策の時ならば、なんとか言えるのではないか〉ということでした。そして、結婚以来初めて、歩きながらではありましたが、妻に「○○さん、おはようございます」と言うことができたのです。妻はその一言に涙を流して喜んでくれたといいますから、「さん付け」の効果は絶大でした。

経営者にとって、家庭生活の安泰は経営の必須条件です。その中でも夫婦がお互いに感謝し合いその絆を日々深めていくことはとても大切なことでしょう。しかし現実問題として、お互いの存在や働きそのものが当たり前になったり、時には不足不満を抱えたままいつのまにか諦めてしまったり、ひどい時にはお互いに無関心ということにさえ至ります。

結婚以来、妻に感謝の気持ちはありながらも、一度も「ありがとう」と言えなかった人がいました。あるとき、言葉に出して伝えることの大切さを痛感し、勇気を出して初めて妻に「ありがとう」と感謝の言葉を伝えることができました。

その喜びを、妻は「ありがとう そのひとことで いやされる」と川柳に表わし、夫はそのお返しに「ありがとう 妻にささげる プロポーズ」と綴りました。「ありがとう」の一言が夫婦の絆を一段と深めた一瞬でした。

私たちは今、改めて夫婦としての縁があったことの意味を噛み締め、お互いにその存在を感謝し、その思いを素直に表現できる人でありたいものです。

2009年3月24日火曜日

3月24日 モーニングセミナー 「新米社長奮闘中~倫理と仕事と家族と~」

今朝のモーニングセミナー講師は横須賀市倫理法人会会長 アシストクルー(株) 代表取締役上野博之氏です。

1965年生まれの青年ですが従業員40名アルバイト400名を指揮する社長で、倫理歴はなんと25年といいます。

私は彼とは倫理を通じてから6年ほどのつきあいで、平素は口数の少ない物静かな人という印象でしたがお話を聞いていると、彼の信念の強さと家族を包む情熱の表れに心の中が暖かくなってきました。

彼の会社の企業理念は、
多くのお客様にお役立ちができる最高のサービスを提供し仕事を通じて感謝と反省のできる豊かな人材の育成と信頼を強調し合う仲間作りに努める。
というものであり、

彼の掲げている行動指針は、

・常に自己啓発に努め高い目標にチャレンジする。
・ルールや時間を厳守し信頼と協調ある職場にする。
・常にお客様に心のこもった最高のサービスを提供する。
・私たちが提供する商品とサービスに自信と誇りを持って行動する。

というものだと述べていました。

さらに毎朝の朝礼には般若心境を唱えることなど、上野氏の会社に対する愛情を心強く語ってくれました。

そんな上野氏は家庭でも奥さんに感謝と全面協力を惜しまず、食後の皿洗いは自分の担当であると話していらっしゃいました。

倫理の基本である明朗・愛和・喜働から、今一歩進めて「素直」を実践されている上野氏は頼もしい限りです。

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私が本日聴いた彼の講話を思い出しながらこの感想文を書き終わる頃、テレビではワールドベースボールクラシック(WBC)の決勝戦、日本対韓国の試合がみごと日本勝利で終わりました。

ここのところの暗い世界に頼もしい光、これからの日本が見えるような気がした大安の一日でした。

横浜市中央倫理法人会 専任幹事 鵜飼稔

2009年3月20日金曜日

今週の倫理 (604号)より 苦しいときこそ笑って生きる


大雪の積もった道を、気をつけて歩こうとすればするほど革靴がすべり、腰を打つはめになることがあります。それと同じように、トラブルや問題は、避けようとすればするほどついて廻ってくるものです。

とかく私たちは、トラブルや想定外の問題に直面すると、不足不満や愚痴をこぼしたり、責任の転嫁をしたくなりがちです。くさりきった気持ちのままであれば、神経はますます過敏になり、気持ちも暗くなるばかりです。

そのような時、そうした場面から一歩離れて自分を見つめ直してみる、普段以上に笑いやユーモアを生活に取り入れるように意識的に努めてみると、〈何でこんなことに、いつまでもクヨクヨしていたんだ!〉と、フッと開放されたような気持ちになれるものです。

また職場や家庭でも、誰かの笑い声が聞こえたりすると、周囲の人々はホッとするものです。自分も相手も緊張感がほぐれ、雰囲気が和みます。そんな時に会話が弾み、さらには、うまい具合に良いアイデアもパッと閃いてくる可能性が高まるのです。

 苦境を乗り越える方法として、それまで通りのやり方を続行し、努力一辺倒でいく方法もあるでしょうが、まずは心を平静に保ち、焦らず肚を据えて状況を受けとめ、見方を変えて解決の糸口を探ってみることも忘れてはなりません。

かつて、ヤマト運輸㈱の創業者・小倉昌男氏(一九二四~二〇〇五年)は、次のような言葉を遺しました。
「悪い循環から脱するには、全然別の場所に移り、まったく新しいところで仕事をしたらどうかと考えた」
 そもそも同社は、工場から店舗に荷物を届ける商業輸送をサービスの主力にしていました。しかし、労使協議のもつれや競合他社の出現により業績が悪化。設備投資にも出遅れた末に、苦境に陥っていきました。

 その状況を打開するため、小倉氏は「官」が使い勝手の悪いサービスを提供しているだけで競合となる民間企業が存在しなかった、小口荷物の配送に着目したのです。収益性を分析し、勝算があると判断した上で、新分野への進出を決断。それが「宅配便」という新市場を切り拓くことにつながったのです。

 苦境の打開策を見つけようと、情熱を燃やすことは必要なことです。しかし、夜も眠れないほどに不安や焦りを抱いたままでの状態が、ずっと続いていくのであればどうなるでしょう。やがては体調面や精神面にまで悪影響が及び、暮らしそのものが悪循環に陥ってしまいます。

大阪弁に「泣いている暇があったら、笑ろてこまして生きようやないか」という言葉があります。難しい状況に陥った時こそ、尻に付いた雪を払い、何事もなかったかのように笑って、今やれることに明るく朗らかに喜んで全力で取り組む。すなわち「緩急自在」の「緩」をつくる、その工夫を苦しいときこそ私たちは忘れてはならないのです。

2009年3月17日火曜日

3月17日 モーニングセミナー 「打つ手は無限」


本日は倫理研究所法人局首都圏方面長、山口秀雄氏の講話です。

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今般、経営環境はかなり厳しいですが、これからまだまだ厳しくなるでしょう。
なんとしても経営の継続をして乗り越えていかなければなりません。

ただ、厳しいということは、人間が真剣になります。
人材もそう簡単に辞めないし、良い人材も入ってくる。
そういう意味では改革するには良い時期だと思います。
みなさんは倫理の勉強を通じて「打つ手は無限」であることはよくご存じだと思います。

こうしたときほど実践が必要です。どんな状況でも実践者には頭が下がります。

特に気づいたらすぐすること。このことがとても大事です。
後にのばす、ずぼらにするとどうなるか?これは誰でも知っているはずです。

次に大事なのは気づくと言うことです。
気づくとは、最高の叡智、気づいたらさっとやる。
このことを倫理では即行といいます。

一番身近にいる人が一番何でも知っているわけですからその人の話をよく訊いて、
素直にすぐ実行をする習慣を付けると良いでしょう。

最高によい即行は、早起きです。朝おきは繁栄の第一歩ともいいます。
目が覚めるということは必要があって目が覚めたわけです。
だれでも最後は目が覚めなくなりますから、目が覚めるうちはさっと目を覚まして実行に移し、
不況を乗り越えていきましょう。

2009年3月13日金曜日

今週の倫理 (603号)より 能力を出し合い、不可能を可能にする


「知恵のある人 知恵を出す 金のある人 金を出す 物のある人 物を出す 命出す人 命出す 四つが組んで 頑張れば 世界の沙漠は 緑化する」
二〇〇四年二月二十四日、九十七歳で亡くなられた「沙漠開発の父」と呼ばれた故遠山正瑛鳥取大学名誉教授の言葉です。

氏は一九〇六年(明治三十九年)十二月十四日、山梨県の富士吉田市に生を享け、苦学の末に京都帝国大学農学部を卒業。鳥取農林学校(現・鳥取大学)に赴任し、砂丘研究と砂地での作物生産に取り組みました。しかしその道のりは険しく、担当者から「砂地で作物が出来るようになったら、太陽が西から昇る」と笑われたそうです。

その言葉に奮起して、「慌てない、焦らない、諦めない」を信条に日本で初めてスプリンクラーを導入し、長年の努力の末、砂地で長イモ、ラッキョウ、スイカなどの生産に成功したのです。また、退官後も砂丘の研究に取り組み、「沙漠開発は世界平和への道」と未来の食料事情と地球の沙漠化を憂え、中国の沙漠緑化活動を始めたのです。八十五歳の時でした。

場所は中国内モンゴルクブチ沙漠。その後、十五年間で東京ドーム四千個分、約三百万本の植林に成功し、現在でも毎年、日本の緑化ボランティアが植林活動を続けて、小規模ながら農業、畜産に成果をあげつつあります。

倫理研究所も一九九九年より同沙漠にて「地球倫理の森創成」として植林活動を続け、今年で十年目を迎えます。十年間で約千四百名の会員の方々が現地に赴いては汗を流し、植林本数は二十八万本を超えるまでになりました。そして、そこには昆虫や鳥が集まるようにさえなったのです。

氏は冒頭の言葉を「祈りから行へ―命捧げる男の詩」として語り、続けて「民族宗教貧困と 沙漠に嵐は 吹き荒れる 世界平和はいつの日か 祈り願いに 汗ながす 木を植え種まき つづければ 世界の沙漠は 緑化する」と祈りや願いをさらに一歩進めて実践実行しなければ何も変わらないと強調し、各人が持てる力、能力を出し合って協力すれば「不可能を可能にすることが出来る」と、その信念を披瀝しています。
ある企業では「知恵のあるもの知恵を出せ技術のあるもの技術を出せ 知恵も技術もないもの汗を出せ 知恵も技術も汗も出さないものはせめて笑顔を出せ 何も出さないものは去れ」とのモットーを掲げています。

「自分の能力、自分の個性、得意技は何か」「自分に出せるものは何か」「自分は何をやるべきか」を再度問い直し、それぞれが持てる力を発揮し協力することが総合力、組織力を高めることになります。
人の集まりが、いわゆる集団が組織として機能するためには目的・目標を明確にするとともに能力、役割を自覚することが重要です。現代社会は政治も経済も教育も家庭も企業も人の心も沙漠化しつつあります。「森」は一本一本の木の集まりであり、企業も一人ひとりの人の集まりです。森に生物が集まり自然を取り戻し、森としての全体の力を発揮するのと同様に、企業も社員の働きに応じて仕事が集まり、活力が増していくのです。

自分の持てる力を出し合って、「日本創生」を実現しようではありませんか。

2009年3月10日火曜日

3月10日 モーニングセミナー 「日本の警察」



本日は、元警察庁長官の佐藤秀雄氏の講話です。

警察は国の数だけ種類があるといわれますが、POLICEの起源は、ギリシャ時代のポリスに由来、意味するところは「政治」であったようです。それが次第に今日のような警察を意味するものとなってきました。

現在の日本警察は近代日本における「第三」の警察といえます。

第一は戦前は内務省を頂点とし官選知事を長とする国家警察です。

第二として戦後、昭和23年から29年までは市町村を単位とする自治体警察と国家警察の二本立ての警察があります。

現在は都道府県を単位とする自治体警察と、これを統括する国の警察機関とで構成する世界に例を見ない独特の警察へと成長を遂げました。

警察の任務達成のための4大機能として、1予防・鎮圧、2犯罪の捜査、3情報機関、4行政(指導取り締り、法律案の企画、立案)があり、政治的にも中立を保っている日本の警察組織は、アジア各国から強い関心を持たれています。

2009年3月6日金曜日

今週の倫理 (602号)より 現場を知ることで見えるものがある


機械工具・水道材料卸を営むF社長。「現場主義」をモットーにしている氏が、数年前、本社とは別の市に営業所をオープンさせようとしていた時のことです。

「責任者を出せ」という苦情の電話がありました。電話の主は、オープン間近の営業所の隣で寿司店を営む店主からでした。「工事の騒音と埃で、大変迷惑しているのでなんとかしろ。侘びをいれろ」」と捲くし立てられたのです。

ほとんど担当者任せで、また施工業者を信頼していたF氏は、〈責任者である自分が、事実をこの目で確かめてから〉と思い立ち、ご迷惑をおかけしたことを詫びるため、ともかく現地へ急行したのです。店主に責任者であることを名乗ったところ、「どんな偉い人か知らないが、世の中の常識を知らないネ」「普通は、工事前に挨拶回りするのが礼儀じゃないのかい」と怒り心頭です。

「この埃を見てくれよ」と、店内のいたるところを指し示します。確かに細かな粒子の埃が確認でき、〈これでは、食事処で、しかも生ものを扱うだけに、おっしゃることの一つ一つがもっともだ〉と思ったのです。一時間半ほど立たされたままだったといいますが、平身低頭お詫びをし、今後このようなことのないよう、ご迷惑をかけないことを約束しました。すると、店主もいくらか態度をやわらげてくれたのです。
F氏はすぐさま、請け負っている施工業者の責任者に、また会社の担当者たちにも、事の一部始終を説明し、注意・改善をして工事にあたるよう頼んだのです。

このことでF氏は、いくつか反省させられることがありました。それは、トップとして指示が曖昧であったこと。任せているのではなく実態は放任だったこと。自ら現地へ足を運び、担当者と一緒にあいさつ回りをすべきだったこと等々の気配りが足りなかったことなどです。

すると時同じころ、担当者をはじめ社員たちが、「うちの社長に申し訳ないことをした」と、猛反省をしたというのです。さっそく翌日から、工事現場を中心に向こう三軒両隣を、出社時間前から自主的に集合して清掃を毎日始め出し、さらにはご近所への「あいさつ」の励行も始めたのです。
営業所がオープンしてからも毎日、一貫してその実践を続けました。そうしているうちに、F氏の会社の社員たちも、隣のすし屋を利用することも多くなっていきました。そんなある日のこと、F氏の会社の顧客からこんな話がありました。

「隣のすし屋のおやじが、Fさんの会社の人たちを褒めていましたよ」「いそいそと、毎日、道路の掃除はしてくれるし、あいさつがよくてね、立派な会社だよとニコニコしていたよ」というのです。F氏は、社員たちの自発的な行動に、なんともいえない感慨に浸るひと時だったといいます。

 F氏は一連の出来事を振り返り、倫理法人会で教えてもらったことが、身に沁みたと語ります。「トップは、とにかく現場へ行く。現場へ行ってみないとわからないことが多い。現場の生の声を聴く、空気やニオイを嗅ぐ。肌に感ずるものの中から、判断を間違えることを防げる」と強調します。

 現場に行き、現場の声を集約する。それによって、社の進路がはっきりと見えてくることを心したいものです。

2009年3月3日火曜日

3月3日 モーニングセミナー 「人生をかけた甲子園」



本日は人材教育コンサルタント、岩下恵子様の講話です。

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みなさんは最近大泣きするようなことはありますか?
私は今も「負けたら終わり。」という厳しい戦いに挑む高校野球に没頭、横浜高校にぞっこんでして、今でも毎年、甲子園の時期には一喜一憂、負ければ大泣きしています。

私は一人の選手のファンではなく、横浜高校のファンです。

それは子供の頃、応援スタンドにて法政二校の偵察をしている横浜高校の野球部員と出会って、一緒に写真を撮ったのがきっかけでした。

私は野球そのものをまるで知らなかったので、背番号1番を付けている人がなにしろ一番偉いのだろうと思い、一番をつけている愛甲投手と写真を撮りました。そんなことがあったその年、横浜高校は夏の甲子園で優勝しました。

普通であれば、ここで愛甲選手のファンになるのでしょうが、なぜか私は、横浜高校のファンとなり、その後も毎年のように甲子園を目指すきっかけとなりました。
それからというもの、横浜高校の甲子園出場を夢見て、中学三年生からスコアブックを付けるようになりました。

最初はスコアの書き込みがまるで追いつかないので、カセットテープに録音をしながら、スコアブックをつける練習をしました。

母親にはあきれられましたが、少しでも横浜高校の近くに行きたいという思いから、横浜高校と同じ駅で乗り降りできる氷取沢高校に進学、同学校を応援することもなく横浜高校のために千羽鶴を折るといった毎日でした。

短大にすすみ、就職活動をどうせなら一番良いところに行きなさいと、野村證券を勧められましたが、入社試験はさんざん。
面接官になぜ希望したのか?と訊かれたときに、「私は横浜高校のスコアブックを中学三年生から付けていました。最初はなかなかできなかったのですが、今ではスコアブックを付けていると次の打者にどこに投げればどうなるか、これがある程度読めるようになってきました。

こうしてデータに基づいた先を読み、お客様に経験を生かして株式を売りたいと思います。」
と話したところ、面接官に面白い子だと評価され、これが縁で就職できたのではないかと思っています。

就職しても横浜高校への熱は冷めず、直属の上司に「目標額を午前中に契約達成したら、早退しても良いですか?」といって、これを達成。その午後には、早退して応援に駆けつけるといった日々でした。

平成6年に野村證券の社内試験があり、一般職から総合職へと変わりました。
これも、甲子園に行くのには、なにかと費用がかかるので、この費用を捻出するには、総合職の方が給与面で有利になるからとの思いからでした。

ところが、総合職では営業部を希望していたのに研修部に配属、多忙で応援にも行けなくなりました。

そこで、翌年は土曜日応援に行こうと思いましたが、体調を崩し応援に駆けつけられず、その試合は一点差で負けたと聞きました。
やはり私が応援しなくちゃ!との思いから、一週間後にクルマを購入。
これで応援に行けると思うのもつかの間、私の仕事はどんどんと激務に。
クルマで応援に行くのも激務。そこで疲労感を覚え接骨院に通うようになり、今の主人と出会うことになりました。

この時、主人は接骨院の研修員として働いていたのですが、私が「独立を手伝うから横浜の近くで接骨院を開業してくれないか?」と口説き落としました。

というのも、この年暴投で甲子園に行けなかった松坂君、これを応援するために接骨院を開業することを私が決意、能見台に接骨院を開業までこぎつけました。

ですから、はじめてきたお客さんが松坂大輔君なのです。。

結婚して20年、今もコーチャーズベンチや接骨院で選手たちを応援しています。

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まさに人生をかけた甲子園ですが、「高校野球は負けたら終わり。勝ち続けなければならないという高校野球が一番性に合っている。だからプロ野球はまるで興味がない。」という岩下さんは結果を出す仕事人なのだという気がしました。

さらに、懇親会でお話しされた「強いチームが勝つのではなく、勝ったチームが強いのだ。」という言葉も印象的な岩下さんでした。