自身の人生の中で絶望の淵に追い込まれるような出来事に見舞われながらも、その後自暴自棄になることなく、いよいよ自分の人生に対して、真正面から真摯に向かう人が時としています。一九九九年四月、山口県光市で起こった凄惨な母子殺害事件で、大切な家族を喪った本村洋さんも、そうした中の一人ではないでしょうか。
事件後、公判が進む折々でのご本人の会見や、事件に関するマスコミ報道等でご存知の方も多いでしょうが、『なぜ君は絶望と闘えたのか 本村洋の3300日』(新潮社 門田隆将著)には、氏の事件直後からの心の葛藤や、また氏を支え続けた周囲のたくさんの方々との交流が綴られています。
当時18歳の少年が逮捕され、「少年法」の壁で、家庭裁判所の判断によっては、事件の詳細を遺族さえ知ることなく、闇から闇に葬り去られる可能性もありました。同様の事件は一九九七年に神戸で起こり、その猟奇的な犯行は世間を騒がせました。担当の刑事の配慮により、本村さんはその被害者(当時11歳の少年)の父親との交流を持つことができ、同じ境遇を体験した同士ということで、大変勇気づけられたそうです。担当刑事は、本村さんが最愛の家族を守ることが出来なかった自分を責めて、自殺を図ることを危惧していたのです。実際、本村さんは一審判決の直前、両親と義母に対し「遺書」を書いていました。
また氏は、初公判が迫り、心が落ち着かない時期、勤務先へ辞表を提出しています。これからのことを思うと、会社に迷惑がかかるという思いからでした。しかしこの時、辞表を受け取った上司は、「この職場で働くのが嫌なのであれば辞めてもいい。君は特別な経験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人たれ」と応え、また「亡くなった奥様もそれを望んでいるんじゃないか」と諭したそうです。
これを契機に、氏は人知れず裁判の終結を静観するのではなく、積極的に社会に対し被害者として発言し、事件が社会の目に晒されることで、司法制度や犯罪被害者の置かれる状況の問題点を見出だしてもらうことに全力を注ごうと決意しました。
この背景には、氏の幼少期からの闘病経験や、妻子の「命」、さらには犯人の「命」に必然的に向き合わなければならない状況で育まれた「死生観」というものの存在を感じずにはおられません。この世に生を享け、与えられた「命」を何に使うのか? という大命題は、常に私たちに突き付けられているものではありますが、なかなか意識することは難しいものです。
多くの人々に支えられ、そして最愛の天国の妻子に背中を押され、挫折感を何度も味わった九年間という長い闘いの末に、犯人に自らの罪と向き合わせた氏ですが、見舞われた悲劇は察して余りあります。「絶望」という状況の中でも、投げやりになることなく「使命感」をもって取り組む氏の姿勢は、個々の人生に向かう私たちに、大切なことを教えてくれています。
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