2007年12月26日水曜日

今週の倫理 (539号)より 日々の仕事に徹し、「与える幸せ」を得る

児童文学作家のシエル・シルヴァスタインに、『おおきな木』という絵本があります。主人公はりんごの木と少年。二人は大の仲良しで、少年は毎日、木登りやかくれんぼをして遊び、とても幸せでした。
やがて少年は青年に成長し、木登りよりも買い物がしたい、お金が欲しいと言い出します。木は言います。「こまったねえ。私にお金はないのだよ。あるのは葉っぱとりんごだけ」。そこで木は、自分のりんごの実を少年に与え、町で売ってお金にするよう薦めます。
少年は成長するたびに、欲しいものが変わります。少年が家を望むとあれば木は自分の枝を与え、旅に出たいと言えば幹を切り落として船をつくるようにいいます。かつての少年は、自分が何か欲するときだけ、りんごの木を訪ねるのです。それでも木は自らの全てを与えます。丸裸になり、幹も切り倒されたりんごの木はしかし、それでも「HAPPY」でした。
長い年月が経ち、老人となった少年が、りんごの木を訪れます。欲しい物もなくなり、疲れ果てた彼が人生の最後に欲したものは何か。それは、座って休む静かな場所でした。実も、枝も、幹も失ったりんごの木でしたが、最後に残った切り株を老人の休む場として与えるのです。ラストシーンは、老人が切り株に座っている絵。そして次の言葉で物語は締めくくられます。「木はそれで嬉しかった(and the tree was happy)」。
この物語の最大のポイントは、りんごの木が与えることに「HAPPY」であること。それが、悲劇的感情を伴う犠牲の行為とは異なっているという点です。
「欲しい」と思った物を手に入れる、「したい」と思ったことを実現させる。このような「得る」幸せがあるのなら、その対極には「与える」幸せもあるはずです。例えば、企業において「お客様のために」「社会のために」を謳った立派な社是、社訓、経営理念があるのはその証左でしょう。しかし、それが単なる飾りとしてのみ存在するのであれば、非常にもったいないことです。なぜなら、幸福の半分を捨てているのと同じことなのですから。
社会貢献、顧客第一主義などの経営理念を本気で追求していれば、昨今の数々の企業不祥事等は起きなかったに違いありません。得る幸福ばかりを追い求めてしまうと、どこかで狂いが生じます。本物の倫理経営が求められる今だからこそ、澄んだ目で自社の創業精神を見つめる必要があるのです。そこにはきっと、小さくても確かな「~のため」があるはずです。
私たちは、与える幸福を体感する場を持っています。各々に与えられた日々の仕事がそれです。これこそ与える行為、その幸福を感得する究極の「行」でしょう。自らの仕事の尊さを悟り、そこに徹する時、「HAPPY」が生まれます。「喜働」とは、そのことに他なりません。我慢ではない、忍耐ではない、負け惜しみではない「喜びの仕事人」を目指し、質の高い人生を送りたいものです。
(シエル・シルヴァスタイン著『おおきな木』篠崎書林刊、原題『Giving Tree』)

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